2010年2月3日水曜日

「新しい時代にふさわしいメディアとは〜政権交代とメディア」『週刊金曜日』2010年1月22日号 pp.14〜17.

 民主党が政権をとって一〇〇日が過ぎて久しい。アメリカの新政権が慣習的に享受しているようなメディアと政権のハネムーン期間が、この日本にもあったかどうかについては、今後、研究者たちによって詳しく検証されるだろう。
 だが、いずれにせよ、最近の全国メディアの論調は、民主党はやはり官僚支配を打ち破れないとか、日米関係を不安定にしたとか、国家戦略が打ち立てられないとか、地方の声が届かないとか、そんな話ばかりだ。
 しかし、本当に明らかになってきたのは、メディアこそが政権交代に追いついていないという事実なのではないだろうか。
 政権交代後、マスメディアと政権の関係には、変化したことと変化しなかったことが存在する。変化したことは、政権がまがりなりにも情報公開への意欲を表向きみせていること。変化していないことは、メディアの取材源と取材方法が旧政権時代とほとんど同じだということだ。
 つまり、問題はむしろメディアの側に存在すると言った方がよい状況にある。
 旧政権の有力者と一蓮托生の関係にある有力政治ジャーナリストたちが新政権を弱体化させるべく情報をスピンしているという陰謀説も説得力があるようだが、問題は、もっと構造的であるように思える。つまり、既存メディアの情報源とチャンネルが有効性を失いつつある。そして、その空白を埋めて急成長しているのが、オルタナティブ・メディアだ。とくにネット系ジャーナリズムの元気がよい。これが昨今のメディア状況だろう。
 ここで重要な鍵となるのは、人びとのメディアリテラシーだ。旧態依然としたメディアが注ぎ込んでくる情報をいかに読み解き、その背後の意味を嗅ぎ取るかという受け手(オーディエンス)側の能力である。
 政権交代後、人びとのメディアリテラシーが一段階進んだというたしかな感触がある。たとえば、メディアは首相と政権党の幹事長の二人の金の問題を延々と取り上げ政権を攻撃しているが、人びとは、当該の二人に対する批判と、政権に対する支持とを、はっきりと区別しているように見受けられるからだ。それは、首相の支持率の低下が民主党支持率に直結していないことからもうかがえる。人びとは、メディアのプロパガンダに簡単に乗せられないという態度を身につけ始めている。
 インターネットや通信衛星を媒体とするジャーナリズムが、マスメディア、とりわけ地上波テレビの内幕情報を暴露してくれるのも、人びとのメディアリテラシーを鍛える重要な要因になっている。全国紙や地上波テレビ局などによる記者会見の寡占、旧政権実力者と政治記者の癒着、政府公報予算をめぐる広告代理店と旧政権とのゆがんだ関係、政財界の縁故者を優先採用するテレビ局の腐敗などなど、ネットは内幕情報の宝庫だ。真偽は別として、いや別だからこそ、人びとのメディアに対する批判的判断力は嫌がおうにも鍛えられるというべきだろう。
 ここでさらに考えたいのは、地方権力と地方メディアの問題だ。
 民主党は、地域主権を唱え、税源の地方自治体への移譲を進めるとマニフェストに書いた。ところが、税源を移譲される地方は、あいかわらず公共事業と利権政治に明け暮れている。これでは、何のための地域主権かわからない。コンクリートから人へと言って移譲された財源が、地方に移された途端、要りもしない空港や狸しか通らない県道に化けては、なんのための地域主権か分からない。地方権力は、あいかわらず土建屋政治の利権と談合の構造の中にどっぷりと浸かっている。
 地方メディアも同様である。旧態依然とした地方権力を、それと呉越同舟する地方メディアが支えている。地方新聞社は、戦時下の用紙統制に由来する一県一紙体制を諄々と維持し、さらに、自民党の郵政族と深く縁故を築くことによって放送メディアをも傘下におさめ、地方メディア王国を築いてきたからだ。公共事業の誘致に、知事と二人三脚で狂奔する地方メディアという構図ができあがっている。この構造を変革しない限り、地域主権は絵に描いた餅だ。
 このような地方の現実をそのままにしておく限り、新政権は、かつての自民党の前車の轍を踏まざるを得なくなるだろう。この構造を解体するには、結局のところ、リベラルな市民活動と新しいメディアが地方に澎湃として起こる以外に道はない。というのも、「民主主義は選挙だ」という信念に裏付けられた小沢リアリズムは、自民党の支持基盤であった地方業界団体を取り込むことはできても、地方権力自体の民主化はできないからだ。地上波テレビで顔を売ったタレントが横滑りした程度の改革派知事も、民主化の担い手にはなれない。彼らの人気はメディアの情報操作に依存しているからだ。より高いメディアリテラシーをもち、メディアに批判的な市民たちは、けっして橋下や東国原のような知事を支持することはないだろう。
 ここで想起されるのは、一九六〇年代のアメリカだ。この時代のアメリカは、リベラルなケネディー政権の登場によって、一九六四年に公民権法を制定させ、政治状況を一変させたにみえた。しかし、公民権の普及過程をつぶさにみると、連邦法が定めた人種平等の理念が、保守派が牛耳る地方権力によって、ことごとく妨害されていた事実も浮かび上がってくる。リベラルな連邦政府に対して、地方の保守的権力は、地域主権を盾に公民権法の精神を公然と否定し続けたのだ。地方を変えない限り、公民権は実効性をもたないという厳しい現実が、リベラル派に突きつけられたのだった。
 それでは、このような状況を変えるために、リベラル派は、どのような戦略をとったのだろうか。それは、地方で活動するリベラルな市民活動団体に連邦政府の補助金を潤沢に供給し、地方政治の変革をリベラル派市民たち自らが着手するのを支援したことだ。福祉、人権、街づくりなどにとりくむ市民活動は、寄付控除の制度的優遇に加えて、連邦政府の補助金を得ることで、その活動を幅広く展開しただけでなく、必然的に、保守的な地方権力の変革へとつながっていった。
 もちろん、市民活動は行政の下請けではないから、連邦政府がコントロールできるものではない。しかし、地方政治のリベラル化こそが、地方権力を奪還する決定的に重要な要素であることを見抜いた当時の民主党の戦略は先見性があったというべきだ。ただし、そのリベラルな市民活動が、民主党政権の推進するベトナム戦争に対する強烈な抵抗の基盤となったことは、歴史の皮肉だが、いずれにせよ、ここから日本の民主党がくみ取れる教訓は大きい。
 ところで、私が住む阪神間の街は、今年で阪神淡路大震災の十五周年を迎えた。ここでは、不況、雇用不安、人口減少などの問題が噴出する一方、官僚への不信、無意味な公共事業など政権交代を招いたあらゆる政治的行き詰まりが露呈し、ここにくれば未来の日本社会の病んだ姿が見られるといわれた。しかし、同時に、ここではそれらを打破するための新しい動きも一斉に起こった。ボランティア、NPO、ワークシェアリングなど、さまざまな新しい実践が芽を吹いた。未来の日本の不幸と希望の両方を目の当たりに出来るこの地から、これからのメディアのあり方について言えることがある。
 市民たちは、震災の中で、東京から禿鷹のように群れをなしてやってくる地上波テレビ局がいかに手前勝手で、被災者の現実を伝えないか身をもって経験した。そして、メディアの幻想を思い知った被災地の市民たちは、たとえば、地域のマイノリティたちとともにNHKでもなく商業放送でもない、新しいタイプの地域ラジオ局を誕生させるというような画期的な試みを成功させた。海賊放送局として誕生したコミュニティラジオが、合法的基盤を確立し、地域に根付いて、地域住民とマイノリティたちの声を一〇言語で放送しているという、首都圏ではとうてい考えられないような事態が、ここでは日常的に進行しているのである。
 カナダのオンタリオ州の教育省が策定したメディアリテラシーに関する八つの基本コンセプトの中に、きわめて示唆的な概念がある。そのコンセプトとは、「批判的にメディアを読むことは、創造性を高め、多様な形態でコミュニケーションを作り出すことへとつながる」というものだ。つまり、現状の主流メディアに対する批判性は、積極的にメディアにアクセスしようとする人間の主体を育てることによって、その次の段階として新しいオルタナティブなメディアを必然的に生み出さないわけにはおかないのである。そう考えれば、被災地の神戸は、期せずしてメディアリテラシーの先進地域となったのである。
 このような被災地の経験に照らして言えることは、地方の保守的権力と癒着している地方の商業マスメディアやNHKから相対的に自立した、もうひとつのパブリックな地域メディアの登場こそ、地方の権力構造に変化をもたらす有効なメディアになるということである。
 草の根レベルにおける第三の公共メディア。その出現が、今、その地平を切り開こうとしている。その形は、いろいろあろう。たとえば、ローカルなコミュニティラジオもその一つであり、また、本質的にグローバルなネット系ジャーナリズムもそうだ。そして、情報ネットワーク技術が、それら多様で性格の異なるメディア群に橋渡しをし、グローバルでローカルな新しい形態のジャーナリズムの可能性を開こうとしている。
 永田町界隈で繰り広げられる権力とメディアの新しい闘争もそれはそれで結構だ。しかし、日本社会に地殻変動をもたらす潜在的可能性を秘めたこれら第三の公共メディアを発展させることも、民主主義にとって不可欠な課題に違いない。
 そのために、新政権ができることは多い。第三の公共メディアの法制化が必要だし、財政支援も重要だ。そして、その原資は、現在、不明瞭な使途が問題化している電波利用料(六五〇億円)の一部を当てれば十分だろう。
 政権交代をより確実に定着させるために、地方権力と地方メディアの変革が必要であり、その主体となる市民活動と第三のパブリックメディアの台頭こそ、今、必要なのであろう。それができるかどうかが、新政権が真に変革を担えるかどうかの試金石のひとつとなるだろう。新政権に、不安を抱きつつ、期待するところはまさにそこである。